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青少年や大人に成りきれなかったらしい成人達の痛ましい事件を目にする度に、「偏り」ということを考えてしまいます。
思考、嗜好の偏り、日常生活、人生経験など精神面での体験の偏り、人間関係の偏りなど。 残念にも犯罪を犯してしまった人について、その人達の人格やそれぞれの生活環境、人生の歩み、そして周辺の人間関係等を分析、分類、否定等軽はずみにするべきではないと思っていますが、それでも、犯罪予防するためにもある程度人の心の研究や議論というものはしていくべきなのだろうとも思います。 【「自分嫌い」な子供たち 中学生の半数以上 心の意識調査】 このニュース記事を読んで、論調とは反対にむしろ、子供たちというのはその時代の中で自然に呼吸し、その時代の色にうっすらと染まっていくのであって、相変わらず素直で柔軟な存在であり、我々大人はそれほど慌てたり絶望視する必要もないのではないかと楽観的になってしまうのですが、一方、論調通りに子供たちの発している信号から彼らの精神的危機を汲み取ることもやはり重要だとも思ってみたりします。 ただ、我々周辺の大人達は現代社会の閉塞的状況の中で子供たちが濁った空気や毒物的な要素に染められ、彼らが負わされて喘いでいるその問題のフォルムとコアを的確に捉えられたとしても、実際的にいったい何ができるのか考えた場合に、自分達の力のあまりの小ささにガッカリしてしまいがちです。 わたしも何にもできないわけですが、幸いわたしたち河内人には火祭りがあり、それを通じて子供たち、若者たちに何かを受け取って貰う機会、チャンスは与えられているように思っています。 食生活、つまり栄養摂取の偏りが肉体の健康的な発育を妨げるように、生活や人生の中での体験の偏り、単純化の傾向に陥るということはやはり精神の発育にとって余りいい状態と言えないだろうと思うのですが、それは逆に言えば、人は様々な体験を経るごとにたくましく、豊かに成長していくものだということを表すことになるのでしょうね。 普遍的な指標である、 「かわいい子には旅をさせろ」「苦労は金を出してでもしろ」 有名なアレですよね(笑) 祭りに参加するには、精神的にも肉体的にもそこそこの苦痛を伴いますし、いくつかの壁を乗り越える為に、我慢や自分なりの動機、意欲をものにしないと、うまく消化できないと思うのですが、特に思春期の青年男子にとってはなかなかいい人生経験の場になっているのでなかろうかとわたしはかねがね思っています。 柱松を建てる。楽をみんなで直す。練習する。本番では一緒に役割を任された仲間と交代しながら暗闇で行われる祭りをやり通す。時には鉦と楽のもみ合いなど、ケンカに近い状態になることもあり、そういう時は眠っていた闘争心を呼び覚ましたり、またある時は仲間同士助け合いながらと、火祭りの一晩で得られる収穫は数え切れないくらいあるでしょう。 楽しく参加するにしても、システムや人間関係の中に反発を覚えるにしても、時には肉体や心を傷つけられることがあるとしても、人には回復という素晴らしい機能もあり、どの経験もが自分の血肉として消化できうる筈であり、何ひとつ無駄にはならないと思うんです。 実際、祭りに参加している男達=若衆達はみないい顔をしています。 「村の中で、次の時代を担う男達を育てる場」と、しても祭りは重要だと思いますので、わたしたち周辺の大人の役目としてはそれをなくさないようにサポートして行かなくちゃいけないと思っています。 また、村社会を否定した、会社や家族、個人を核とした20世紀後半の社会の形は、ストレス社会や人々の孤独化、子供たちの精神の荒廃化など、多くの問題点を露呈しており、その打破を期待され責任を背負わされがちの政府の政策や教育も完全に行き詰まっているのが現状だと思いますが、そこで、例えば火祭りのある村での子供たちの成長というものが、どんな風に子供たちの精神に作用しているかなど研究してみるのもいいんじゃないかと思っています。 古くさいものを守っていると思ったら、これからの地域社会の理想像を追い掛けるというテーマにおいて我が村は案外先端を行っているのではないかともたまに思ってみるのです。 子供たちの心が荒れてしまえば、次の時代は確実に荒れるわけで。 子供は親の背中を見て育つと言われますが、我々の曲がった背中が集まったものが今の社会であり、子供たちの心を曇らせたり毒々しいもので濁らせているものが何かあるとすれば、それは我々が吐いた毒であったり、社会の掃除を怠っている怠惰のせいではないかと思えてなりません。我々が背筋をまっすぐにし、身の回りのホンの小さなスペースでもいいからそこの濁った空気や水を入れ替えることが身近な子供の心を蘇らせ、そういった末端での積み重ねにより初めて綺麗な次の時代に繋がっていくのではないか……そんな風に思えてなりません。
by kaizoe
| 2005-07-18 16:23
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