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田舎の暮らしと夏に行われる火祭りについてつづっています
by hisa
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祭りに教わること
a0019755_1565138.jpg今の便利な生活の中で、普通の人が柱松のような重量物を扱うことはまずないでしょう。
仕事の中でいくらか近い作業を行う製造業や建設業でさえ、こういった場面ではクレーン、ユンボ、フォークリフト等の重機を使うのが普通です。柱松の製作作業もそれらの機械を入れればスピーディーかつ安全に作業を進められることは承知しています。
しかし、できうる限り今までのスタイルを踏襲していきたいものです。
文化の保存という目的も勿論ありますが、もっと実際の利益として人、特に男性にとって、こういった肉体労働的な共同作業、重量物の扱いを経験することは決して無駄にならないだろうという自分なりの狙いもあるのです。


a0019755_1573226.jpg重量のあるものを動かしたり、持ち上げたりする時、手順や方法としてどの様にすればスムーズに行えるのか。具体的にはテコや摩擦力をどんな風に効かせれば楽に作業が行えるか。また、その時に参加者がケガをしない為に何を注意する必要があるのか。そういったことを活きた知恵として知る機会は現代の文明社会、都市型の生活の中にはあまりないと思います。
祭りに参加することはそれらを体験、学習、活用することにつながりますので結構実益もあるのではないかと私は考えます。

極端な話かも知れませんが……
機械という文明の利器はいつでも頼りにできる絶対的な存在ではないと思われます。いつ何時人力(の集結)が必要になるかも分かりません。阪神淡路大震災の惨劇は記憶に新しいですが様々な自然災害、また人為的な事故、テロや戦争などで破壊された現場の様子をュースで目にする時、痛感するのは環境が非平和的、非日常的な状態に陥った時、最後に頼りになるのはやはり人の力だということです。
この場合、力とは直接的な腕力であり、また、その集結の為に必要なチームワーク。それから知識や技術といった個人の力量と、それらを組織の中で組み合わせてどれだけ効率的に運用できるかといった個と全体における総合的な能力になるでしょうか。


a0019755_158050.jpg祭りを通じて養われる力や経験がそういった特殊な状況においても何か役に立つのではないかと期待するのはおかしいでしょうか?

一見時代錯誤的ともとれる私たちの活動は現代社会においての実利を考慮しても決してピントのずれた行為ではないと考えています。
今風に言えばこれは「生きる力」を養う絶好の機会ではないでしょうか。


※↑「火祭りサイト」を久しぶりに見ていたら、片隅に自分はこんな事を書いていました。
「そうそう、俺もそう思うよ」なんて、他人の話のように読んでみたり(笑)
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by kaizoe | 2005-01-26 01:20 | 河内火祭りと若衆
まじこなる
紐のような長い物がこんがらがってクチャクチャになることをこの辺では「まじこなる」といいます。
最近は余り使わなくなりましたが。。。

幼稚園に入園する前、両親が共働きだった為、私は昼間、親戚や隣近所のお婆さんに面倒をみて貰っていました。
どこの家も今ほど暮らしは豊かではなく、お婆さん達もみんな何かしら仕事をしていました。
畑仕事や炊事洗濯や、中でも稲藁で縄や草履を編んでいる様子を私は傍らで見ていることが多かった。

祭りで使われる縄も5年ほど前までは手製が原則だったのですが、さすがに今は工業製品の機械縄に変更されました。
それでツボキを作ったり、柱松を3方から支える太縄を編んだりします。

縄を編むときはねじるというより、縒って(よって)いくんですが、今日はこの「縒り」について考えてみました。

壊れかけた男女の仲が修復されることを「縒りが戻る」といいますが、この「縒り」は縄や綱の「縒り」のことなんでしょうね。
でも、気が付いたんですが、縄や綱は複数のひも状のモノを「縒り」合わせることで、ねじ曲がろうとする力によって互いに結びつき、機能するわけで、「縒りが戻る」とはねじれた状態がほどけるということでも、逆にバラバラになったもの同士が再び組み合わされるということでも意味としては案外通じるような気がします。

それから、毛糸玉でも荷造り紐でも何でもいいんですが、綺麗に巻き束ねてあった紐状のものをスルスルと引き出していくと、何ら悪いことをした覚えもないのに変なクセが発生してヘビがのたうち回っているごとくクニャクニャに折れ曲がってしまい困った……と、いう経験はないでしょうか?
私は電気工事業に従事しているのですが電線の束を扱う時も同じで、巻き束ねてある電線はほどく時に縒りを取り除くことを考慮しないと、まっすぐに延ばしたつもりでもねじれてクチャクチャに折れ曲がってしまいます。
若い頃は「縒り」の理屈が分からずに実は大いに困惑したものでした。

また、今日電線を扱っていて少し失敗してしまったのですが、電線の束というのはほどく時に先ッポを何処かに一度くぐらせてしまうと簡単にこんがらがってしまい、100メートルなり200メートルなり最後の最後までほどくのに苦労するはめになったりします。
最初のちょっとした不注意が思わぬトラブルに発展する。。。

前からたまに書いていましたが、実は若衆の人数がドンドン減っていて、火祭りの存続がいよいよ危うくなってきています。
時代が変わり、自然に消滅していくのは仕方がないと思っているのですが、今の状態はずっと若衆の団結を支えてきた鉄の掟が負に作用して、崩壊を加速させているような形で……人が作った決まりの為に消滅が早まるのは勿体ない。
それで、今はいつの間にか古くなってしまった決まりを現時点での最良の形に変えるべく、みんなで策を練っているところです。
火祭りは8月ですが、稲の収穫を目指して冬から春、土作りに精を出すように水面下での活動はすでに始まっています。

火祭り=若衆のまじこなった今の状態ですが、根気よくほどいていけばいつかまたまっすぐで強い一本の綱に戻すことができる筈で、ここで諦めちゃいけないと思っています。
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by kaizoe | 2005-01-19 23:59 | 河内火祭りと若衆
ホーデンヤー・ホッサイナーナー
「ナーナー!ホーデンヤー……ホッサイ、ナーナー!」
火祭りの前に延々と行われる大念仏ではこの掛け声を基本にして進められます。
ただ、私にとって謎だったのがこの掛け声の意味でした。
現在使われている言葉ではありません。
意味がさっぱり分かりません。
村にはこれといった書き物も残っていませんし、由来を知っている人物も周りに見あたりません。
もしかすると、意味はないただの掛け声なのでしょうか……いや、でも。。。
ずっとモヤモヤしていたのですが、ここへ来て一筋の光が差し始めました。

こちらのぺージを見つけました。
同じ「ホーデンヤー」という掛け声を掛け合い、鉦、太鼓を打ち鳴らす「お幡入れ・法伝哉(ほうでんや)」という伝統行事があったそうです。
この記事は兵庫県揖保郡の太子町ということで、こちらとは距離的に遠いですが共通項が多いようですし関連がありそう。
聖徳太子を讃える行事みたいですね。
実際にどんな行事なのか見てみたいです。

それからこちらのぺージに「ヤッサイ・ホッサイ」という火祭りに関する表記があります。ホッサイは百束から転じた言葉ではないかということ。
柱松に火を着けるタイも百束……伝統文化として、念仏行事と柱松行事が合体しているパターンは珍しい(海の博物館・館長談)そうですが、これはただの偶然でしょうか。
また、記事に登場する北畠親房は南北朝時代、伊勢の隣、田丸という所に城を築き、九鬼嘉隆が勢力を伸ばし鳥羽・志摩を制圧するまで、北畠家は国司としてこの辺りも納めていましたので、うちの火祭りと関係があってもおかしくはありません。

ちなみに、鳥羽ではうちの祭りは「1591年に九鬼嘉隆の命により始められた」といわれていますが、これだけ奇抜な様式が何処かから唐突に持ち込まれ、いきなり始められたとはちょっと思えません。
私はもっと以前からこの地では、土台になる祭りがすでに行われていたのではないかと推測しています。

今のところ全部、想像とこじつけでしかないのが残念ですが、これから裏を取っていけたらと思います。
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by kaizoe | 2005-01-15 04:17 | 歴史の旅へ
山伏峠
a0019755_2241367.jpg牡蠣の養殖が盛んな鳥羽の漁村、浦村町に「海の博物館」という施設があります。
そこの館長さんである石原氏に「柱松行事(火祭り)は修験道の験くらべの一つとしても行われていたらしい」と教えて頂いてから、少し興味を抱いていました。


修験道といえば山伏!
「河内にも昔は山伏がいたのだろうか」それとも「例えば熊野山伏によって祭りが伝えられてきたのだろうか」そんな風に想像を膨らませて楽しんでいました。

サイト掲示板の方でお客様とお話していて、ふと「河内」「山伏」をキーワードにGoogle検索を掛けてみると、画像の一番遠くに見える水色の山が「山伏峠」と言われていることが分かりました。(現在は道として機能していない為、私は歩いたこともなくまったく知りませんでした)
今日、父親に尋ねると間違いないということでした。
あの山を越えると向こう側は伊勢神宮(内宮)の神宮林ですので、遙か昔、撮影に立っているこの道を山伏が歩き、峠を越えて神宮参拝に向かったのかもしれません。

また、先日記事にした「おたいさん(オタイサン)」とは「御大師さん(オダイシサン)」の訛りではないのか?そして「御大師さん」とは、河内の丸山庫蔵寺を建立したと伝えられている弘法大師を指すらしく、「弘法大師」←→「真言宗」←→「山伏(修験者)」←→「火祭り」←→「おたいさん」という繋がりもいささか強引かもしれませんが見えてきました。
折りを見て、もう少し詳しく調べてみたいと思います。
それを土産話に石原館長さんも、もう一度訪ねてみようかな?

貴重な情報をくださったSさんありがとうございますm(_ _)m
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by kaizoe | 2005-01-13 22:40 | 歴史の旅へ
タブーが破られる時
a0019755_1255565.jpgたまには「火祭り」の話を。

祭りで使用する柱松(火柱)は松といっても実際は杉の丸太を使用しています。
乾燥を防ぐ為に祭りが行われる8月7~16日以外は川の底に沈めて保管しています。
台風や集中豪雨の増水でたまに流されてしまい、慌てて探しに行き、下流の橋の橋脚に引っ掛かっていたり、鳥羽湾に漂流しているという情報を市民から得たりで、トラックで回収に出向いたことも過去に何度かありました。
柱松の保管責任は頭(鉦役衆)にありますから、大雨のあと川底に柱がなかった時は当事者たちは真っ青になったそうです(笑)

画像は祭りの広場まで運ぶ為にトラックに乗せているところですが、以前は、
「(柱松上げでは)金気に触れてはいけない」
と、いい、1トン近くあるこの柱をこんな状態のまま1㎞近い山道を歩き、みんなで担ぎ上げていました。

私は規律が変わる境目の頃に若衆に入り、1度だけ人力での作業に加わりましたが、肩に掛かる重さは半端じゃなかったですね~、今でも痛みを覚えています。
そこで、メンバーたちの人間性って良く分かるんですが、若衆は当時かなりの人数(70人以上)いたんですが、人数の割にもの凄く重く感じたわけです。
おかしいなぁと。
みんな担いでいるフリをしてすましているんですね~。
不真面目なのが多いことに気付いたあとは私も適当に力を抜きましたけどね(^^ゞ
で、こちらが肩を少し下げると別のヤツが覿面にウッ!とかギャーというからおかしいです。

坂の勾配が変わったり、何かの拍子に柱松が傾くと、
「イタタタ、コ、コラ、誰や抜いたん!肩しっかり入れんか~」
などと、誰かが言い、
「入れたいけど、俺背が低いからぶら下がっとるだけなんや~、しゃぁないやん!」
なんて、別のどっかから声が上がり、そんな風に皆で馬鹿なことを言いあい、痛さを紛らせながら上がっていきました。
辛かったけれど、結構面白かったですね~。
そういう河内の祭りの様子を指して、
「昔は皆でヤーヤー言いもんで(準備を)やったもんや」
なんて、言います。

ちょっと真面目な話になりますが、最近はさらに規律を緩め自動車、機械、電動工具などを使い、準備はドンドン合理化されているんですが……便利になった部分と大切な何かをなくした部分と実は半々なんじゃないかと思い始めているんです。
機械化してしまえば手順は建築や土木の現場とそんなに変わらない。
時折自分たちは何をやっているんだろうと冷めて見てしまう。
「祭り」って、何なのだろうと分からなくなり。。。

若い頃、
「金気に触れてはいけない」
と、いう話を上の人から聞かされた時、
『自分のいる村は昔話の国か?』
と、内心恥ずかしくなったんですが、最近はそういうポリシーや決め事の一つ一つに本当は深い意味合いがあったのではないかと思うようになりました。
かといって、昔のやり方に戻すことはもはや難しいのですが。
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by kaizoe | 2005-01-12 02:09 | 河内火祭りと若衆
境界線
a0019755_20592291.jpg「俺もいつおらんようになるか分からんしな……」
普段はとぼけた事ばかりいっている父が珍しく真面目な顔で部屋にやってきて、そう切り出したのは昨年の秋でした。
長男である私に対して、家が代々受け継いできた僅かばかりの土地の境界線をそろそろ教えておこうかという話でした。

還暦前に慢性腎不全を患っても「百まで生きる」と、言い切っていたしぶとい……と、いうか、往生際の悪い父でしたが気が付けばいつの間にやらホントのお爺さんになっていました。
私も気にはなっていたのですが、そういうことをすると余計に何か起こりそうな気がしてこちらから話を切り出すのを一日延ばしにしているような近年でした。

向こうから誘われてからも、何だかんだと用事が続いてとうとう年をまたいでしまったのですが、今日やっと行ってきました。

土地といっても、今や山も田畑も人に見放され捨てられたホントの秘境ばかりなんですが、それでもこの先、無用な不動産トラブルに巻き込まれないためにも財産管理はしっかりとしておいた方がよい気がしています。
それに現在の評価額では二束三文の荒れ地ばかりですが、幼い時に両親を亡くした父たち4人兄妹は先祖が残してくれたその土地の一部を売却したり、収入はない中でも若くして嫁入りした母と一緒にこの土地で米を作ったりしながら何とか生きながらえ、私達を産み育ててくれました。
顔は知りませんが祖父母やそのまたお爺さんたちは手作業で開墾した筈です。
そんな両親や先祖の様々な記憶が詰まった場所をおろそかにはできません。
しっかり次の代へと引き継がねばと思っています。


a0019755_20595130.jpg今日は父の他、母親も連れ3人で出掛けました。
腎不全を患ってはや10数年、平地では数㎝の段差にもヨロヨロし、時にはそのまま座り込んでしまうほど衰えた父ですが、子供の頃から慣れ親しみ、若い頃は山仕事や炭焼きで鍛えたということで、そこに戻ると勘が戻るのか結構元気に歩きます。
ここはうちの(元)水田の川向こうでこちらも私が小さい頃は水田だったのですが、植林され今は埋もれた遺跡のような姿に変わっています。

a0019755_210258.jpg川を渡ってそのあと懐かしい水田跡を歩きました。
今は地面はカチカチになり雑木林になっていますが、昔は明るい陽が照りつけ、春には親戚、近所が手伝い合って田植えをしていました。
その頃、まだ手伝いもできない程幼かった私には、賑やかで精力的に進んでいく作業を見たり、お昼ご飯や三時のおやつにみんなの笑顔が見える田植えの季節はお祭りのようでもあり大好きだったのですが、朽ち果ててペシャンコになった小屋の横を過ぎていくと、それも今では遠く過ぎ去った夢の跡といった感じでした。
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by kaizoe | 2005-01-10 22:04 | 田舎生活
おたいさん
1月3日は「おたいさん」の日です。

お節料理をつまみにほろ酔い加減でテレビなど見ていると家族から注意されたりします。
「今晩はおたいさんが来るから静かにしとらんと。。。」
「ああ、そうやった」
と、慌ててテレビを消し、雨戸を閉め部屋の明かりが漏れないようにし、外灯も消してしまいます。
そうしてこの晩は、我が河内町の各家々では「おたいさん」がやってくるのをひたすら待つのです。


「あらや目出度やタトリが参った」
いつかその掛け声がかすかに聞こえると、家の誰かが餅ないし最近では少しばかりのお金を包んで玄関に出て行きます。
その時も明かりは決して付けず、つまり家の中も玄関戸の外も真っ暗な状態になっています。
戸をわずかに開けると、扇子の白い三角が闇にぼんやり浮かんでいます。
そこに餅(又はお金)を置くと、手がにゅっと出てそれを掴み、扇子と一緒にその手の主である人影は音もなく去っていきます。
「おたいさん」が来ている間、決して声を出したり、相手の姿を見ようとしてはいけません。
昔はその姿を見た者は、相手に斬り殺されても文句は言えなかったそうです。



今年の3日の夜も、我が家ではいつもと同じように待っていたのですが「おたいさん」にはついに遭遇できませんでした。
一度、声の様なものが聞こえ、しばらく待った後、もしやと恐る恐る外に出てみるとうちの敷地から出ていこうとする少年の背中が見えました。
薄いマフラーを揺らしながらその華奢な背中は真っ暗な道にすぐに消えて行きました。

あっちゃぁ……コラ若衆!もっと何回も叫ばんかい!
だいたい声がちっちゃいんじゃ、近頃の若いもんは~!!
「おたいさん」は若衆の内、年の若い方から数名がやってくれているのですが、最近の男の子たちは育ちが良すぎるのか上品でサクサクしていてなんともはや……
えっ?耳が遠くなったんじゃないかって?……そうかも(^^;
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by kaizoe | 2005-01-05 02:05 | 河内火祭りと若衆
年始恒例
a0019755_285319.jpgクルマを下りると何やら見慣れない物が。
「大砲かな?」
と、近寄ってみると「お木曳き(おきひき)」の台車でした。
伊勢神宮は20年に一度、本殿(正殿)、宇治橋など主要な建築物、装束、神宝をすべて作り直すというとんでもない行事・式年遷宮を行います。その中で建築材として使用される材木をこの台車に乗せ、お祭りの形で運搬する行事をお木曳き……と、いうんだと思います。
何せ20年に一度きりだから私は生で見たことがないんですよ(^^ゞ

a0019755_294487.jpgそんなわけで、年始め恒例の初詣に父と二人で行ってきました。
ところでご存じでした?
伊勢神宮の正式な参拝の順序は外宮→内宮の順なんですってね。
ずっと経路的に回りやすい内宮から行っていたのですが、今回初めて外宮を先に参拝しました。

まずは例年通り「手水舎」で手を洗い、口をゆすぎます。
しかしですね、白木作りのこの綺麗なヒシャク……使ったあと手やスポンジ(←そんなもんないし)で洗うわけにもいかないし、軽く水を掛けただけでそのまま返しました。
周りも大方の人はそうしているみたいでしたが……見ず知らずの人と間接チッスしまくりですね、これじゃ。

a0019755_2105189.jpg横に並ぶ人、すれ違う参拝客の顔を見ながら、
『うわっ、このオバチャンは勘弁してくれ』
なんて、想像(妄想?)しつつ歩を進め、正殿の側にある「お札授与所」で「福矢」を買ったあとお参りしました。
神社では「二拝、二拍手、一拝」が正式らしいですが、なかなか恥ずかしくてできません。

今年も普通に手だけ合わせてお願いしました……お賽銭100円で。
そして駐車場へ戻り、内宮へ。

a0019755_211183.jpg普段ならクルマで5分くらいの内宮、外宮間ですがお正月ばかりは遙か彼方のイメージです。
いったいどの道がもっとも早いのか、最短ルートをはじき出すべく足りない頭フル回転。
渋滞を避け古市(ふるいち)を抜けることに自分の中で決定。
昔は江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭の一つといわれた元パラダイ……い、いえ、狭い道路にいにしえの街道の面影が残るその町中を通って何とかスムーズに移動できました。
でも内宮はそこからが大変。
最近、伊勢市駅前商店街の凋落と共に停滞感著しい外宮にくらべ、内宮は敷地広大にしておかげ横町のヒットも幸いし参拝客も圧倒的に多数です。誘導された陸上競技場の仮設駐車場から雑踏の中をたっぷり歩かされました。
まずは五十鈴川を一度渡り、おかげ横町へ。
画像の立派なお屋敷は赤福本店の裏。

a0019755_2113339.jpgそして赤福の表。
本店勤務の姪の姿はあまりの混雑に見つけられず、スルー。
ちなみに、姪からは餅に対する社員たちの熱い拘りをよく聞いていますが、それゆえなのか、本店の餅はお土産用の箱入りとはやはりひと味違うそうです。そう言われてみると、箱入りのはたまに水っぽいと感じることもあるぞな。

a0019755_2115492.jpgそんなこんなで……
おかげ横町を抜け。

a0019755_2143526.jpg宇治橋の大鳥居をくぐり。

a0019755_6131011.jpg正殿にお参りしました……お賽銭100円で。

ところで、内宮は正式名称を皇大神宮といい天照大神をお祭りしているんですが、ご神体が何なのかまでは知りませんでした。
鏡かなぁと何となく思っていたのですが、それはたまたま当たっていたものの……ただ、鏡は鏡でもただの鏡ではないようなのです。
なんと、三種の神器の一つ八咫鏡(やたのかがみ)なんですってさ。
三種の神器の有り難みも実は全然知りませんが、とりあえずさすがです、伊勢神宮。
ちなみに後二つ、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は熱田神宮に、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は皇居に安置されているそうです。
また、神宮には別宮、摂社、末社、所管社といった、大小様々なお社がたくさんあり、その中には月読宮(つきよみ)、伊佐奈岐宮(いざなぎ)、伊佐奈弥宮(いざなみ)といった聞いたことのある名前がたくさんあります。
神宮参拝も神話の世界をもっと知れば、また違う面白さが見えてくるのかも知れませんね。

それはそうと、参拝場所になる正殿の正面は撮影禁止の立て札があったので、しようがなく横側の林の影から苦しいアングルで撮影したのですが、神宮のホームページを見てもやっぱり同じような角度から撮影してありました。
もしかすると、神宮内部の方々にとってもカメラを正殿(ご神体)に向けることはタブーなのでしょうか?
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by kaizoe | 2005-01-04 02:59 | 伊勢志摩百景