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田舎の暮らしと夏に行われる火祭りについてつづっています
by hisa
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カテゴリ:歴史の旅へ( 7 )

大仏殿の謎
正倉院を見学した後、せっかくだからと大仏殿も寄っていくことになりました。
前に訪れたのは……小学校の修学旅行ですから、ほぼ30年ぶりということになります。
「うわぁ~、俺ってそんな年寄りなの??」
と、最近よくこういうパターンでショックを受けます。
a0019755_22343324.jpg


正面から見て最初に感じたのは、
「あれ?なんか建物の縦横比が変だなぁ?妙にヒョロっと高くて落ち着きがない。当時の人智を尽くして建てられたんだろうけど……なんで?」
その疑問は大仏殿に入ってすぐに解かれました。

この建物、歴史上2回焼失して、鎌倉時代と江戸時代に再建されてるんですね~。中にオリジナルと鎌倉時代の再建バージョンの図面や模型がありました。現在残っているのは江戸時代に建てられたもので、予算の都合もあり、3分の2程に横幅が狭められたらしいです……それで納得です。

a0019755_2235480.jpgっと、義兄から新たな疑問が!
「大仏さん、どうやって中に入れたんやろ?」
なんだか、昔流行った三球照代さんの地下鉄漫才みたいな展開ですね~


手塚さんの「火の鳥」の中に、型をこしらえてその中に銅を流している描写があったような気がして、
「中で作ったんとちゃう?」
と、その時は答えたのですが。
ネットでちょっと調べてみると……大仏様を先に作って、建物を後から被せたように取れますね……真相はどうなんでしょう?? 参考:Wikipediaの解説

大仏殿の後、国立博物館で行われている正倉院展を見ることになりました。

a0019755_22353894.jpg展示物の資料の一つから、わが火祭りのある疑問を解く興味深い手がかりも得ることができました。
画像は今回展示されていた物ではないのですが、正倉院に保存されてきた宝物の一つで「幡(ばん)」と呼ばれる、仏具の一種らしいです。

a0019755_2236868.jpg火祭りの柱松の頂上部には三種のハタと呼ばれる飾り物を取り付けますが、特に形が個性的な「ムカデ」がその奇抜なデザインが何をモチーフに形作られたのか私には長い間疑問だったんです。正倉院の宝物は幡の一部ですが、ムカデの上部に良く似ています。それに、幡は当然ハタとも読めます。関連を強く感じました。

っと……撮影してきた大仏様の画像を見ていて、ふとあることに気づきました。左側の柱に何か飾りが付いています。

a0019755_2092653.jpg別の角度から撮った画像を拡大してみると……材質は金属製らしいですし、左右のヒレのようなものに角度が付けられている為一見別の物にも見えますが、これも幡ではないかと。

a0019755_22362298.jpg東大寺関係の別のサイトではこんな画像も見つけました。
火祭りのムカデは、この幡をモチーフに形ができあがったんじゃないかと思いますが……どうなんでしょう。

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by kaizoe | 2006-11-03 22:43 | 歴史の旅へ
新月の木・正倉院の謎
「正倉院見に行くけど、どうや?」
姉夫婦に誘われて行って来ました。

a0019755_9162265.jpgさすが奈良!
県庁の中庭にも鹿です。


a0019755_9212367.jpg東大寺大仏殿を横に見ながら、正倉院へ。

a0019755_905326.jpg


到着すると初めて現物を見た私は、思わず声を上げましたよ。
「なんや!ログハウスやんか」
な~るほど……義兄と古都奈良はどうもミスマッチングに感じたんですが、5年ほど前からログハウスに懲りだし、マイホームもそれで建てた彼はログを見る目で正倉院を見ようとこの遠征を思い立ったのか?

観光の対象としての正倉院……国宝、世界遺産といってもそれは、別に動き出して変形するわけじゃないですし、最初はいささか退屈な常識的建物に見えました。いや……でもしばらく見ているとだんだん興味が沸き出しました。

まず、姿が良いですね~!
a0019755_9175132.jpg

おぼろなイメージの中で屋根は単純な切り妻かと思ってたのですが、実際は上品な寄せ棟式でした。それも樹皮を積み重ねたものではなく本葺きの瓦屋根。屋根を支える垂木(たるき)を一部二段にして鼻先を上げ、屋根の面に微妙な曲線を与えています。……なかなか重厚にして優美です。
と、すると、屋根の重量だけでも相当なものになっているでしょうが、よく持ちこたえているものです。
でっ!本体を支えている基礎部分……高床式の床下部分に目を向けると、図太い丸柱は礎に乗せられて建物を支えています。掘っ建て式だとどうしても木は腐ってしまいますが礎式は水はけも良く、長持ちするわけですね。工法の的確さを歴史が証明していますね。

すごく不思議なのが、丸柱、壁の校倉(中倉は板壁)共に煙でいぶしたように黒ずんでいますが痩せやひび割れがほとんどないこと。補修して何度か取り替えているのかと思いましたが……ネットで調べてもどうも建築当初の材のままの様。雨ざらしの木材が1200年持つとは意外というか驚異です。何か秘密があるのでしょうか?

まず杉や檜では無理だろうと義兄に聞いたら木は檜を使用していると教えてくれました。
「う~ん……檜なら普通割れが入る筈やけど、見あたらない……何でやろ?」
義兄、曰く、
「新月伐採の木を使ったんちゃうかと、(一部で)言われとるんやけどな」
新月の木

今、奈良の地にごく普通に建っている正倉院ですが、1200年変わらずにその姿を保ち続けることは普通の出来事ではまったくないわけで。。。その奇跡をテクノロジーで実現させた巧みの技……正倉院には不思議ミステリーがいっぱい!納められてきた宝物、そして、器もまた建築技法の宝庫なのですね。

日本は高温多湿で雨も多く、ヨーロッパの国々に比べて住宅の耐久年数もかなり劣るようですが、家を建てるのはとっても大変。
個人の金銭的負担、精神的負担、それから総量である国力の保持という視点で考えた場合ももっと住宅の耐久性を改善するべきだろうと私は前から思っています。
そして、地球の温暖化はますます進むでしょうが、これからは機械の冷暖房に頼る付け焼き刃的な建物ではなく、省エネルギー、エコロジーの資質を備えた本当の意味で高性能な住宅が必要になってくる筈と。

そこで正倉院の登場でぃっす!
基礎は耐久性や風通しに限界のあるコンクリートの布基礎をやめ、自然石の礎に。そして高床、壁は校倉(ログ)。その建物は百年二百年長持ちし、親子何代にも渡って住む。これからのスタンダードな日本の住まいとしてそういう形があってもいいんじゃないでしょうか。
マジでそう思います。

「いにしえの巧みの技を現代に復活させた新しいタイプのログハウス。材はあなたのお住まいになる地域周辺から杉と檜を調達し使用。【シリーズ正倉院・タイプA】 河内農業森林組合からお届けします」
とか、商品化できたら面白いでしょうね~。

※書きたいことがいっぱいあるんですが、とてつもなく長くなりそうなんで……我慢します。
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by kaizoe | 2006-10-31 09:18 | 歴史の旅へ
ヤタのカラス
鳥羽(志摩半島)から南へR260を行くと、熊野に入る手前に長い長いトンネルを抜け、錦(にしき)という地名どおりの美しい港町を見下ろせるところがあります。
ハイウェイのような真新しく快適な道路をそのまま下っていくと親しげな漁村が開けており、街をそっくり囲む防波堤には地元の子供たちの手になる絵が延々と描かれていたりします。
その中に八咫烏(やたがらす、やたのからす)が登場する日本の神話が絵物語として描かれているところがあり、砂浜を歩きながら楽しむことができます。

八咫烏といえば、まず浮かんでくるのは日本サッカー協会のシンボルマーク。
サッカーワールドカップ、ドイツ大会までちょうど2ヶ月になりましたが、Jリーグ発足の頃、初めて知った3本足の奇妙な烏。そのユーモラスでちょっと妖怪チックなキャラクターと華やかなサッカー界との意外な取り合わせに、どんな関係やいきさつがあるのかわたしは前から気になっていました。

堤防に描かれている絵物語は古事記は中巻(なかつまき)に記されている神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)こと神武天皇のお話です。 
……神話初心者のわたしには解説はちょっと難しくて、続きはまた後日に。

a0019755_214351.jpg








ウィキペディアにある神武天皇の肖像
弓の先にとまっているのが八咫烏……かと思ったら、同じく物語りに登場する金のトビらしいです。
ちょっと、ロードオブザリングみたい。 
 

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by kaizoe | 2006-04-09 23:14 | 歴史の旅へ
鉄甲船は鉄ではなく嘘で被われている?
今晩のNHK「その時歴史は動いた」は織田水軍(九鬼水軍)の鉄甲船がテーマでしたので楽しんで見ました。

信長は大阪本願寺(石山本願寺)攻めに苦しみました。
兵糧攻めまで漕ぎ着けても、大阪湾から木津川を経て物資を補給する水路を断つことができず、制圧に時間を要したということです。
本願寺側には水軍では最強と言われた毛利の村上水軍がついており、天正4年(1576)に行われた織田水軍との海戦では村上水軍の勝利に終わっています。
2年後、リベンジマッチの切り札として信長が送り込んだのが嘉隆に造船を任せた巨大鉄船(鉄甲船)6隻で、その新兵器の威力によって織田水軍は村上水軍を撃破、大阪本願寺制圧につなげたそうです。

鉄甲船は初めて鉄の装甲を施した軍船だったそうで、どんな形だったか、どのように作られたのか興味津々だったのですが、番組ではCGを交え分かりやすく説明してくれました。
特に、装甲に使われた鉄板を刃物で有名な関の刀鍛冶達が製造したという新情報には、一時はうなってしまいました。
鉄工業と造船を結びつけた信長の独創性と実行力にもあらためて畏敬の念を持ったのですが……しかし、いくつかの疑問というか疑念も抱いてしまいました。

ほんとに刀鍛冶達の手作業だけで、巨大な安宅船の船体を被うほどの鉄板が製造できたのだろうか?番組中で一隻に使われた鉄は5tくらいと言っていましたから単純計算して30tの鉄板が製造され関から伊勢に輸送されたことになります。それも最初の海戦の敗北から軍船完成まで2年しか経っていないのに、その間にできたのか?
また、絶対的な重量の問題や装甲が主に船体の上側にされていたという推論から重心が高く不安定な構造だった筈で、それでよく一隻も沈むことなく海戦に参加し勝利を得られたものだということ。
嘉隆と配下の者達、伊勢は大湊の船大工達の造船と操船技術の優秀さがあったとしても、少し話が出来過ぎのような気がしました。

そしたらば……この記事を書くためにネットで少し鉄甲船について調べてみたら、その軍船が鉄の装甲を施されていたというハッキリした歴史上の記述は今のところないらしいんですってね?
つまり普通の木の船だったかもしれないと。
おお!その方があたしゃ納得できますぞ!!
NHKは何か新しい情報を持っているのかと番組のサイトを覗いてみたら、こちらでも使っている資料は鉄甲船についての一般的なものみたいです。
さらに、「関鍛冶による鉄板の製作」も推論、CGで出ていた船のデザイン、構造も想像とハッキリと述べられています。

あの番組は歴史番組と思い教科書的に見ていましたが、フィクションの多い娯楽番組なのかも知れませんね。
ちょっとびっくり!NHKの製作姿勢にもびっくりです。
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by kaizoe | 2005-07-20 23:30 | 歴史の旅へ
ホーデンヤー・ホッサイナーナー
「ナーナー!ホーデンヤー……ホッサイ、ナーナー!」
火祭りの前に延々と行われる大念仏ではこの掛け声を基本にして進められます。
ただ、私にとって謎だったのがこの掛け声の意味でした。
現在使われている言葉ではありません。
意味がさっぱり分かりません。
村にはこれといった書き物も残っていませんし、由来を知っている人物も周りに見あたりません。
もしかすると、意味はないただの掛け声なのでしょうか……いや、でも。。。
ずっとモヤモヤしていたのですが、ここへ来て一筋の光が差し始めました。

こちらのぺージを見つけました。
同じ「ホーデンヤー」という掛け声を掛け合い、鉦、太鼓を打ち鳴らす「お幡入れ・法伝哉(ほうでんや)」という伝統行事があったそうです。
この記事は兵庫県揖保郡の太子町ということで、こちらとは距離的に遠いですが共通項が多いようですし関連がありそう。
聖徳太子を讃える行事みたいですね。
実際にどんな行事なのか見てみたいです。

それからこちらのぺージに「ヤッサイ・ホッサイ」という火祭りに関する表記があります。ホッサイは百束から転じた言葉ではないかということ。
柱松に火を着けるタイも百束……伝統文化として、念仏行事と柱松行事が合体しているパターンは珍しい(海の博物館・館長談)そうですが、これはただの偶然でしょうか。
また、記事に登場する北畠親房は南北朝時代、伊勢の隣、田丸という所に城を築き、九鬼嘉隆が勢力を伸ばし鳥羽・志摩を制圧するまで、北畠家は国司としてこの辺りも納めていましたので、うちの火祭りと関係があってもおかしくはありません。

ちなみに、鳥羽ではうちの祭りは「1591年に九鬼嘉隆の命により始められた」といわれていますが、これだけ奇抜な様式が何処かから唐突に持ち込まれ、いきなり始められたとはちょっと思えません。
私はもっと以前からこの地では、土台になる祭りがすでに行われていたのではないかと推測しています。

今のところ全部、想像とこじつけでしかないのが残念ですが、これから裏を取っていけたらと思います。
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by kaizoe | 2005-01-15 04:17 | 歴史の旅へ
山伏峠
a0019755_2241367.jpg牡蠣の養殖が盛んな鳥羽の漁村、浦村町に「海の博物館」という施設があります。
そこの館長さんである石原氏に「柱松行事(火祭り)は修験道の験くらべの一つとしても行われていたらしい」と教えて頂いてから、少し興味を抱いていました。


修験道といえば山伏!
「河内にも昔は山伏がいたのだろうか」それとも「例えば熊野山伏によって祭りが伝えられてきたのだろうか」そんな風に想像を膨らませて楽しんでいました。

サイト掲示板の方でお客様とお話していて、ふと「河内」「山伏」をキーワードにGoogle検索を掛けてみると、画像の一番遠くに見える水色の山が「山伏峠」と言われていることが分かりました。(現在は道として機能していない為、私は歩いたこともなくまったく知りませんでした)
今日、父親に尋ねると間違いないということでした。
あの山を越えると向こう側は伊勢神宮(内宮)の神宮林ですので、遙か昔、撮影に立っているこの道を山伏が歩き、峠を越えて神宮参拝に向かったのかもしれません。

また、先日記事にした「おたいさん(オタイサン)」とは「御大師さん(オダイシサン)」の訛りではないのか?そして「御大師さん」とは、河内の丸山庫蔵寺を建立したと伝えられている弘法大師を指すらしく、「弘法大師」←→「真言宗」←→「山伏(修験者)」←→「火祭り」←→「おたいさん」という繋がりもいささか強引かもしれませんが見えてきました。
折りを見て、もう少し詳しく調べてみたいと思います。
それを土産話に石原館長さんも、もう一度訪ねてみようかな?

貴重な情報をくださったSさんありがとうございますm(_ _)m
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by kaizoe | 2005-01-13 22:40 | 歴史の旅へ
夏草や
a0019755_22134249.jpg以前から一つの疑問を持ってきました。
うちの祭りは、
「九鬼嘉隆(くきよしたか)が甥の澄隆(すみたか)の供養の為に始めた」
と、教わってきたのですが、それが今ひとつ納得できないのです。

嘉隆は当時、鳥羽志摩地方の領主の地位に確かにあったとはいえ、九鬼家は元々は紀州、熊野地方から流れてきた海賊であり、地元民にとっては所詮よそ者、むしろ侵略者的な立場になるわけです。
権力によって最初この祭りを押し付けられたとしても、反骨心や独立心が当時もたぶん強かっただろう我が村のご先祖達が嘉隆が亡くなった後々まで大人しく言いつけに服従していたとはちょっと思えない。
ましてや、九鬼家が鳥羽志摩地方を納めていたのは息子の守隆までで、次の代の久隆は徳川幕府によって兵庫の三田に転封されています。

辺境の農民達が400年もの間、一つの歴史的事実から起こった行事を、主に語り継ぎにより正確に伝えてきたというのは少々不自然な気がします。
当時は書き物もそれ程残さなかったでしょうし、時が流れ、領主(藩主)が代わり、平和が訪れる過程で九鬼家の印象は地元民達の記憶から薄れていったのではないでしょうか。
本当に最初書いた嘉隆の命だけを動機にしていたら、祭りはとうの昔に途絶えていたのではないかと思います。

一方、河内の隣、松尾町には、
「文禄の役で戦死した者の霊を弔った行事に始まる」
と、いった内容の文書が残っているそうです。
文禄の役とは有名な「秀吉の朝鮮出兵」のことであり、その戦に嘉隆は60隻の軍艦を指揮し統帥として赴いています。
兵士にはきっと自分の家臣、つまりこの辺り一帯の男達も多数連れていった筈で、その海戦では李舜臣率いる朝鮮軍にボコボコにやられてしまったのできっと戦死者もたくさん出たのでしょう。
海の彼方に行ったっきり帰らぬ人となってしまった、家族や近所の仲間達の霊を弔う為に祭りが始められ、その後しっかりとこの地に根付いたとすれば先の説よりもずっとしっくりくるような気がします。
「戦死者の供養をせよ」
と、命令したのは同じ嘉隆だったでしょう。
その時に、
「澄隆の供養もせよ」
とも言ったのでしょう。
でも、人間なんて所詮他人の言うことで本気になりはしないもの。
人々が何かを続けるには自分達にとって意味のある動機が必要じゃないでしょうか。
と、いうことで、ボクは「文禄の役」を切っ掛けに祭りが始まったというこっちの説を押していこうかなと思っているところです。

年号や人の名前がどっさり出てくる歴史の授業は大嫌いでしたが、こうして身近なことから昔々への歴史の糸をたぐり、遡っていくとちょっと楽しいな~。

(画像は文禄の役の際に組織された艦隊です。中央は嘉隆が建造した旗艦・鬼宿=日本丸)
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by kaizoe | 2004-08-19 22:56 | 歴史の旅へ