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田舎の暮らしと夏に行われる火祭りについてつづっています
by hisa
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夏草や
夏草や_a0019755_22134249.jpg以前から一つの疑問を持ってきました。
うちの祭りは、
「九鬼嘉隆(くきよしたか)が甥の澄隆(すみたか)の供養の為に始めた」
と、教わってきたのですが、それが今ひとつ納得できないのです。

嘉隆は当時、鳥羽志摩地方の領主の地位に確かにあったとはいえ、九鬼家は元々は紀州、熊野地方から流れてきた海賊であり、地元民にとっては所詮よそ者、むしろ侵略者的な立場になるわけです。
権力によって最初この祭りを押し付けられたとしても、反骨心や独立心が当時もたぶん強かっただろう我が村のご先祖達が嘉隆が亡くなった後々まで大人しく言いつけに服従していたとはちょっと思えない。
ましてや、九鬼家が鳥羽志摩地方を納めていたのは息子の守隆までで、次の代の久隆は徳川幕府によって兵庫の三田に転封されています。

辺境の農民達が400年もの間、一つの歴史的事実から起こった行事を、主に語り継ぎにより正確に伝えてきたというのは少々不自然な気がします。
当時は書き物もそれ程残さなかったでしょうし、時が流れ、領主(藩主)が代わり、平和が訪れる過程で九鬼家の印象は地元民達の記憶から薄れていったのではないでしょうか。
本当に最初書いた嘉隆の命だけを動機にしていたら、祭りはとうの昔に途絶えていたのではないかと思います。

一方、河内の隣、松尾町には、
「文禄の役で戦死した者の霊を弔った行事に始まる」
と、いった内容の文書が残っているそうです。
文禄の役とは有名な「秀吉の朝鮮出兵」のことであり、その戦に嘉隆は60隻の軍艦を指揮し統帥として赴いています。
兵士にはきっと自分の家臣、つまりこの辺り一帯の男達も多数連れていった筈で、その海戦では李舜臣率いる朝鮮軍にボコボコにやられてしまったのできっと戦死者もたくさん出たのでしょう。
海の彼方に行ったっきり帰らぬ人となってしまった、家族や近所の仲間達の霊を弔う為に祭りが始められ、その後しっかりとこの地に根付いたとすれば先の説よりもずっとしっくりくるような気がします。
「戦死者の供養をせよ」
と、命令したのは同じ嘉隆だったでしょう。
その時に、
「澄隆の供養もせよ」
とも言ったのでしょう。
でも、人間なんて所詮他人の言うことで本気になりはしないもの。
人々が何かを続けるには自分達にとって意味のある動機が必要じゃないでしょうか。
と、いうことで、ボクは「文禄の役」を切っ掛けに祭りが始まったというこっちの説を押していこうかなと思っているところです。

年号や人の名前がどっさり出てくる歴史の授業は大嫌いでしたが、こうして身近なことから昔々への歴史の糸をたぐり、遡っていくとちょっと楽しいな~。

(画像は文禄の役の際に組織された艦隊です。中央は嘉隆が建造した旗艦・鬼宿=日本丸)

by kaizoe | 2004-08-19 22:56 | 歴史の旅へ
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