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田舎の暮らしと夏に行われる火祭りについてつづっています
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鉄甲船は鉄ではなく嘘で被われている?
今晩のNHK「その時歴史は動いた」は織田水軍(九鬼水軍)の鉄甲船がテーマでしたので楽しんで見ました。

信長は大阪本願寺(石山本願寺)攻めに苦しみました。
兵糧攻めまで漕ぎ着けても、大阪湾から木津川を経て物資を補給する水路を断つことができず、制圧に時間を要したということです。
本願寺側には水軍では最強と言われた毛利の村上水軍がついており、天正4年(1576)に行われた織田水軍との海戦では村上水軍の勝利に終わっています。
2年後、リベンジマッチの切り札として信長が送り込んだのが嘉隆に造船を任せた巨大鉄船(鉄甲船)6隻で、その新兵器の威力によって織田水軍は村上水軍を撃破、大阪本願寺制圧につなげたそうです。

鉄甲船は初めて鉄の装甲を施した軍船だったそうで、どんな形だったか、どのように作られたのか興味津々だったのですが、番組ではCGを交え分かりやすく説明してくれました。
特に、装甲に使われた鉄板を刃物で有名な関の刀鍛冶達が製造したという新情報には、一時はうなってしまいました。
鉄工業と造船を結びつけた信長の独創性と実行力にもあらためて畏敬の念を持ったのですが……しかし、いくつかの疑問というか疑念も抱いてしまいました。

ほんとに刀鍛冶達の手作業だけで、巨大な安宅船の船体を被うほどの鉄板が製造できたのだろうか?番組中で一隻に使われた鉄は5tくらいと言っていましたから単純計算して30tの鉄板が製造され関から伊勢に輸送されたことになります。それも最初の海戦の敗北から軍船完成まで2年しか経っていないのに、その間にできたのか?
また、絶対的な重量の問題や装甲が主に船体の上側にされていたという推論から重心が高く不安定な構造だった筈で、それでよく一隻も沈むことなく海戦に参加し勝利を得られたものだということ。
嘉隆と配下の者達、伊勢は大湊の船大工達の造船と操船技術の優秀さがあったとしても、少し話が出来過ぎのような気がしました。

そしたらば……この記事を書くためにネットで少し鉄甲船について調べてみたら、その軍船が鉄の装甲を施されていたというハッキリした歴史上の記述は今のところないらしいんですってね?
つまり普通の木の船だったかもしれないと。
おお!その方があたしゃ納得できますぞ!!
NHKは何か新しい情報を持っているのかと番組のサイトを覗いてみたら、こちらでも使っている資料は鉄甲船についての一般的なものみたいです。
さらに、「関鍛冶による鉄板の製作」も推論、CGで出ていた船のデザイン、構造も想像とハッキリと述べられています。

あの番組は歴史番組と思い教科書的に見ていましたが、フィクションの多い娯楽番組なのかも知れませんね。
ちょっとびっくり!NHKの製作姿勢にもびっくりです。
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by kaizoe | 2005-07-20 23:30 | 歴史の旅へ
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